背景

イラク南部湿原は、世界中でもっとも重要な湿地生態系のひとつと考えられています。旧イラク政権下において、この湿原地域の生態系が広範囲にわたって破壊されたことは、そこに居住する住民が離散し難民化した事態とともに、イラク国内における最大の環境的・人道的災害のひとつと言われています。人々の健康と暮らしの保護、そして域内の生態系と生物多様性の保存は、紛争後のイラク復興期以来、国家としての優先事項となっています。イラクが復興期から再開発期への移行を進める中、湿原地域における持続可能な長期的管理計画と実施に対する支援がより必要となっています。こうした状況を受けて、プロジェクトが実施されることになりました。

Iraqi Marshlands

イラク南部湿原は、他に類を見ない歴史的、文化的、環境的、水文学的、社会経済的な特徴があります。このプロジェクトは、2004年から2009年に技術・産業・経済局が実施した以前のプロジェクト「UNEPイラク湿原の環境管理支援」の経験と結果に基づき、特に世界遺産への登録プロセスを指針としながら、ますます重要性の高まっているイラク湿原の持続可能な長期的管理体制を推進するものです。また持続可能な地域開発と環境管理業務を試験的に実施したり、地元住民の能力開発と啓発を行うことにより環境保護活動や地方における持続可能な開発、生態系管理に対する地元住民の参加を促進することもプロジェクトの目的の一部です。

湿原地域においては、飲料水、下水設備、教育などの基本的な公共サービスが不足しており、地域の経済活動も小規模かつ限られた地域だけにとどまっている傾向にあります。一般的に、現地住民の教育レベルや職業能力は国内平均よりも低く、多くの住民が伝統的文化に基づく生活様式と慣習を維持しています。他方、‘適切に管理すれば’、この地域の環境と文化資源は収入と雇用機会をもたらす重要な財産となる可能性があります。地場産品の生産、伝統的な美術品や工芸品、あるいは観光などの持続可能とされる生産と消費は、多くの途上国において持続可能な地域開発と発展の原動力になることが立証されています。それらはまた、環境保護を促進するだけでなく、環境保護することへの経済的・社会的見地からの正当な理由付けともなり、熟練・非熟練を問わず様々な就業の機会をもたらします。世界遺産プログラムの優先課題は、保全と管理であり、経済や観光の促進ではありませんが、世界遺産への登録がプラスに作用することで、地元住民の生活レベルの向上と持続的な収入の確保をもたらした例は、多くの先進国、途上国で見られます。イラク南部湿原地域では、多国籍企業による油田開発プロジェクトが開始されています。このような開発は地域の社会経済レベルを向上させる機会となりえますが、大規模プロジェクトが壊れやすい湿原の生態系に与える影響は最小限にとどめなければなりません。世界遺産登録プロセスを通して、地域住民を積極的に巻き込み、、国際的に見ても許容でき、かつ地元に適した保全・管理計画の立案と実施のための枠組みを形成します。そのことを通して、このプロジェクトは持続可能な生産と消費のための手段を選択する場を提供することができます。

Iraqi Marshlands湿原の環境破壊に加え、経済・治安問題が長引いているため、観光ややその他の経済活動に甚大な悪影響を及ぼしていますが、湿原地域はかつて際立った自然美と文化遺産を有した観光地として有名で、国内だけでなく近隣諸国からの旅行者が多く訪れる場所でした。この事実と持続可能な地域開発の必要性を認識した上で、イラク政府は湿原を持続可能なエコツーリズムの候補地とすることによって、地元住民に対する経済・社会・文化面からの支援を拡大すると同時に、‘保護・促進・保護権の拡大’を視野に、自然・文化資源に対する観光からの負の影響を減らそうとしています。

2003年、イラク文化省は他の7つの文化遺産とともに、イラク湿原(メソポタミア湿原)を世界遺産の国内暫定リストに入れました。中でも南部湿原は、自然と文化の両方での遺産認定を受けた唯一の候補地です。世界遺産委員会によって登録された890件のうち、世界中で25件のみが自然・文化の混合遺産であり、176件は自然遺産です(UNESCO、2009年)。アラブ諸国には65件の世界遺産がありますが、うち混合遺産はアルジェリアの1件のみです。それゆえに、アラブ諸国だけでなく、世界的に混合遺産の可能性を秘めた場所に対する関心と、保全管理体制の確立と向上への緊急性が高まっています。さらに、イラク南部湿原が暫定リストに掲載されたことは、イラクの自然遺産の重要性が始めて認識されたと言えます。

現在イラクには、ハトラ(1985年)、アシュール(カラト・シェルガット)(2003年)、サマラ考古学的都市(2007年)の3つの世界遺産があり、いずれも文化遺産です。イラク戦争後から、UNESCOはイラクに対し、文化管理への支援を継続して行っており、その結果、2007年にサマラの世界遺産登録が実現しました。このことは、イラク国内において文化遺産の管理運営体制が再建され始めたことを意味しますが、自然遺産や自然・文化混合遺産のそれは不十分だと言えます。理由のひとつは、自然保護区域を担当する環境省がまだ新しい組織であること、国レベルでも、特に世界遺産プログラムを含めて、自然資源と環境管理に対する経験はかなり限られたものしかありません。この点を補完するためにも、UNEPの積極的な介入が必要だと考えています。